2009年6月3日水曜日

項羽と劉邦〈上・中・下〉 司馬 遼太郎 (著)



先ほど読了。

はじめのうちは、「全然、三国志のほうが面白い」と思っていたが、三国志には無い味を感じるようになって、一気に読み終えてしまった。

四面楚歌ってあんな感じだったんだぁ。今まで安易に四面楚歌をつかってごめんなさい。>項羽


内容としては

項羽 VS 劉邦

という話だが、きっと

将 VS 将の将

とも言えるだろう。

項羽的なリーダーシップは結構魅力的で、かくありたいと思う。

韓信、張良、蕭何、彼らは男だけど惚れるねぇ。

また、使えるならどういう人格であれ、意見を採用してくれる劉邦的な人につきたいとも思う。

つまり私は将になりたいが、将の将にはそれほどなりたいと思っていないことがよくわかった。

しかし将の将の資質は非常に気になるところだ。

有能な士を引きつけて離さない劉邦の魅力ってどんなんだろうか。

側近のものにはすごく弱音をさらけ出すのに、意外と全軍の士気を気に出来る男。

砕いて言うと、お茶目なんだと思うわ。



踏まえて、先生のスピーチを読むととってもわかりやすかった。

戸田先生はじつにさまざまな角度から指導者論を展開し、教えてくださった。中国の史書『十八史略』についても勉強するよう、幾度となくすすめられた。また、みすがら教えてもくださった。そこできょうは、学会後継の指導者である諸君に、この『十八史略(上)』(林秀で明治書院)の中からいくつかのエピソードを紹介しておきたい。ただ原本のみでは、一般には若干むずかしいかもしれない。そこで、作家で歴史にも造詣の深い陳舜臣氏の『小説 十八史略』(旬日新聞社)からも参考に引かせていただくことにする。
 はじめに泰帝国の末期(紀元前三世紀末)、最初に反乱の戦端を開いた陳勝にふれておきたい。
 彼は若いころ、しがない雇われ農夫であった。あるとき、披は将来の夢を語って仲問にあざ笑われた。そのとき披は「嵯呼、熊雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」(前掲、林秀一)と大きくため息をついたという。
 スバメやスズメのような小鳥には、オオトリやハクチョウのような大鳥の志がわかるはずがない。小人物に、自分を超えた器量の人物の大志大望が、どうして理解できようか——との嘆きである。これは本来『荘子』にある話だが、陳勝のことばによって有名になった。
 私どもの目的である広言流布は、最高の「大志」である。その遠大なる志、純粋にして壮大なる目的観と心意気は、社会の人々には、なかなかわからないであろう。まして濁世にあって、目前の利口的欲望や、既成概念にみずからの目を覆われてしまった人々には、想像すらできないにちがいない。ゆえに諸君は、すべてを悠々と達観しながら、大いなる「鴻鵠の志」を、使命の人生の大空に広げていっていただきたい。
 陳勝はやがて農民反乱(陳勝・呉広の乱)の指導者として立ち上がった。そのとき、九百人の農民を前にして行った名演説は有名である。
 「王侯将相、寧んぞ種有らんや」(同前)——王侯、将軍、宰相といっても、生まれつきそうなる人種が決まっているわけではない。皆、同じ人間ではないか。だれでもなれるのだ。われわれも、そうなってみようではないか。陳勝の人間としての捨て身の叫びは、聴衆の心を見事にとらえた。
 陳氏の『小説 十八史略2」では、この陳勝の名文句について、「貧農出身の陳勝は、おそらく正規の教育など受ける機会はなかったであろう。たいした学問はないはずである。それなのに、その時に応じて、名文句を旺くことができた。ひとを感動させる壷を心得ていたのだ。天賦の才能というべきであろう」と評している。
 また九百人の貧しい農民の決起について「みんなその心に不平不満をもっていた。しかし、それがばらばらでは『力』にならない。陳勝はその名演説によって、九百の不平不満をひとつにまとめ、それに火をつけた」(同前)と、陳勝の演説の力を高く評価している。
 言葉の力は偉大である。全魂の演説、指導、スピーチが人の心をとらえるとき、どれほどすばらしい可能性を開き、大きな価値を生むか、わからない。ゆえに指導者は一つ一つの話を決しておろそかにしてはならない。
 私も、これまでにも、あらゆる機会に多くの講演、指導等を行ってきた。今、立派な社会人として雄飛している友のなかにも、高校時代など、若き目に聞いた指導が成長の“原点”となったと語っている人が数多くいる。
 諸君もまた未来の人である。これからの人材である。将来は、どれほど偉人な指導者となるか、わからない。このなかから将来の学会の中心者、また社会のリーダー、世界的活躍をする人物が必ずや出ていくにちがいない。また、いざというとき、学会のため、広布のために、“あの人ありて”とうたわれる不惜身命の活躍をする勇者が現れることもまちがいないであろう。
 ゆえに私は今、青年に対する指導に全力をあげている。「只今臨終」の決意で、全魂をこめているつもりである。
 さて陳勝らの乱に乗じて兵をあげたく人の英傑がいた。これまでにも何度かふれた項羽と劉邦である。のちに漢を建国し初代の皇帝となった劉邦と、天下第一の勇士とうたわれながら最後は四面楚歌におちいり自害するにいたった項羽——。結果のみをみて論じるわけにはいかないが、やはりさまざまな面で二人の相違は大きかった。
 その一つに、指導者として「庶民の心を知る」ことができたかどうかという。点がある。庶民ほど人切なものはない。庶民の幸福こそ究極の目的であり、学会の根本精神もここにある。戸田先生も名もなき庶民一人一人を愛し、守り、その幸福を一切の判断の根幹にしておられた。この戸田先生の精神を今日まで員いたゆえに、学会は一切を乗り越えて勝った。奇跡ともいうべき大発展をした。
 諸君も、この尊き学会精神を立派に継承していただきたい。
 私が若さ諸君に、「苦労をせよ」「みずからを鍛えよ」と繰り返し申し上げるのも、その厳しさにもまれるなかにしか、優れた指導者になる道は絶対にないからである。
 甘やかされた特権階級になってはならない。「庶民の味」「庶民の心」のわからぬリーダーでは、民衆がかわいそうである。広布の前進にあっても、庶民性豊かな、だれもがホッとする指導者の存在が、どれほど大切なことか、銘記したい。
 劉邦と項羽の、もう一つの違いは、その人材群の厚みにあった。劉邦のもとには多彩な人材が集った。
 陳氏は「功があれば、かならず賞す。——これが劉邦軍の原則であった」「項羽軍はどうかといえば、すべての手柄は項羽のものだから、功が賞されることはなかったのである。項羽の勢いをみて、彼の下についた者も、けっして心服したわけではなかった」と書いている。ゆえに劉邦のもとでは「いろんな才能をもった人間が、それぞれ得意とするジャンルで、じゅうぶんに腕をふるうことができたのだ」(前掲『小説十八史略2』)と。
 やはり大切なのは指導者の度量であり、人間的魅力である。一人の力には限りがある。しかし指導者に人材を愛し、功績を公平にたたえる心があれば、人々の力を結集し、無限の力を引き出すことをも可能にするのである。
 劉邦の軍師であった張良は、決して短兵急の、あせった戦いはしなかった。ねらうのは、ただ一つ、天下の統一である。むしろ劉邦軍は、項羽軍の追撃から逃げつづけていたし、一見、負けつづけのようにみえた。
 「『連戦連敗……九十九敗して、最後の一勝、決定的な一勝を得ればよいのです』
 張良は繰り返してそう言った。
 九十九敗後の一勝、——それをいつもきかされている将兵は、敗戦しても、挫折感はすくなかった」(前掲『小説十八史略2』))とある。

 張良は、格好や見栄にとらわれなかった。要は「最後に勝つ」ことだ。その一点を見つめて、着実に時をかせぎ、力をたくわえることだ——。どんな苦戦を強いられようとも、決して大局を見失わず、動じなかった。そして将兵たちにも、その信念を訴えつづけ、「希望」と「確信」を与えつづけた。漢帝国の礎を築いた名将とうたわれるゆえんである。
 逆に、連戦連勝に見えた頂羽車は、いっこうにへこたれない劉邦軍の前に、しだいに疲れ、結局は大敗を喫したことは周知の事実である。
 劉邦が、この張良と並んで重用した名将に韓信がいる。有名な話がある。すでに皇帝となったある日、劉邦は韓信と雑談をかわし、諸将が何人くらいの兵を統率できるかという話題となった。(以下、会話の部分は前掲『十八史略(上)』)
 諸将をあげつらったあとで、劉邦が聞いた。
 「わしはどれくらいの兵の将となれるだろうか」
 すると韓信は、にべもなく「陛下は、せいぜい十万人ぐらいの将にしかなれません」と答えた。
 「では、お前はどうか」。劉邦が問うと、韓信はすかさず「多ければ多いほど、ますますうまく処理することができます(多々益々弁ず)」と。(笑い)
 これを聞くと劉邦は笑って「多ければ多いほどうまくやれるというならば、どうしてわしの檎となったのか」と鋭く突いた。(爆笑)
 韓信の答えがふるっている。「陛下は兵に将たるには不向きですが、善く将に将たる器量を備えておられます。これが私が陛下の檎とされた理由です。その上、陛下は世にいう天から授けられて人君となる素晴らしい運勢のお方で、とても人間業ではありません」
 まことにたくみな返答である(笑い)。よほど頭脳の回転の速い男だったのだろう。ぬけめなく自分を売りこみながら、皇帝を最大限にほめ上げている(笑い)。また事実、的確な劉邦評であった。
 じつは韓信は項羽のもとから劉邦に走った男だ。その韓信が「漢土(劉邦)は私の言を聴き、私を用いてくれた。私はそむくことはできない」という趣旨の述懐をするが、これは、まさしく人問心理の一つの真実を示している。
 これが戸田先生かよく指導された有名な「卒に将たるは易く、将に将たるは難し」の由来である。劉邦のそうした資質の一端は、先に述べたとおりである。

 #誤字脱字があったらすません。

なるほどぉ。

しかしまぁ、世の中、将を目指す人は多いが将の将を目指すの人は少ないように思う。それを考えると、一流の思想をあたりまえのように教えてもらってるんだなぁなんて思う。



本書とはあんまり関係ないけど、司馬遷のことが気になり始めた。

中学か高校でならったんだが、確か、お父さんの意思をついで歴史を纏めるんよね。

それできっかけは忘れられたが、投獄されて殺されそうになるけど、志半ば、死ぬことは出来ないって、殺される代わり、男性の性器を切り落とされるが、史記を書き上げたってな感じだったかな。

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